日本ユーラシア協会の誕生と発展
1931年誕生した「ソビエト友の会」(秋田雨雀会長)は翌年「ソビエト文化協会」と改称し、ソビエト文化の紹介につとめていました。1949年4月22日「日ソ親善協会」が結成され、それまで文化人中心だった会が、より広範な活動を目指す人々の集まりへと発展、その後日ソ国交回復を求める国民世論が高まるなか、1956年10月19日の「日ソ共同宣言」を契機に友好運動は領国の国交正常化に向けて大きく前進しました。
新しい交流の時代を迎え、日ソ親善協会をより全国民に受け入れられる組織へと改組するため1957年6月29日「日ソ協会」が創設され、これにともない翌1958年2月16日、北海道に誕生したのが「日ソ協会北海道連合会」です。
1991年のソ連邦解体に際しては、創設以来継続してきた旧ソ連15の共和国との交流と相互協力を維持するため、1992年9月、名称を「日ソ協会」から「日本ユーラシア協会」へと変更し、今日に至るまで広くユーラシア諸国の人々との交流を進めています。
これまでの歩み
1960年代の活動 -平和と友好をめざして-
「ソ連製ワクチン」緊急輸入を求める国民運動の先頭に立ち、北海道でも大流行した小児麻痺予防のためソ連からの生ワクチン輸入および使用を強く要望、協会の運動の成果は大きな社会的評価を得る
人類初の宇宙飛行士ガガーリンの北海道訪問を歓迎
1964年10月「日ソ平和条約締結促進大会」を開催
1965年初のソ連観光団日本訪問、民間交流の幕開けとなる(トルクメニア号、307名、小樽入港)
1966年10月道連代表のソ連訪問(藤井敬三団長) 1969年11第1回全道ロシア語弁論大会開催
1970年代の活動 -交流活動の広がり-
1975年5月道連機関誌「日本とソビエト」発行(現・日本とユーラシア)
1970年代は北海道と旧ソ連との交流が拡大した時代
- アルトゥール・エイゼン北海道公演
- 道連代表団サハリン訪問始まる
- ナホトカ市民代表団来道
- ソ日協会代表団/対文連会長/サハリン代表団来道
- 1974年北海道大シベリア博開催(入場者17万5千人)
- 1978年道連創立20周年記念式典
- 1978年第1回日ソ友好祭(現・日本ユーラシア友好祭)
- 1979年第1回日ソ医学シンポジウム開催(現・日ユ医学交流)
1980年代の活動 -平和と友好の架け橋を-
1980年代は様々な分野の日ソ交流が発展した時代
- 1980年第一回日ソ医学北海道代表団ソ連訪問
- 1981年第一回日ソ友好親善サハリン「道民の船」(現・サハリンの旅)
- ソ連から多様なアンサンブルの北海道公演が続く(「ボヤン」・サハリンアンサンブル・ノボシビルスクアンサンブル・コリャーク民族アンサンブル)
- 1983年、M・ヴァスクレセンスキーのピアノコンサート
- 1985年、道連専任講師A・マモーノフ先生の指導により第1回「プーシキンとロシア語の夕べ」開催(現・ロシア語詩のつどい)
- 1987年、D・ヨッフェのピアノコンサート
- 1987年「道連創立30周年記念旅行」(124名)(アエロフロート航空チャーター機)
- 創立30周年の1988年を契機に、道連の活動は多くの道民参加を得て拡大発展した
1990年代の活動 -広がる地域間交流-
90年代は北海道とサハリンや極東各都市、ノボシビルスクを結ぶ相次ぐ姉妹都市交流で始まりました。北海道から定期的な旅行団や代表団訪問、語学交流、ボランティア日本語教師の活躍、学術交流提携、ロータリー運動など、21世紀に向けてますます地域間交流が活発になってきた時代でした。
札幌−ノボシビルスク姉妹都市提携一周年を記念した協会主催シベリア旅行では、日本ユーラシア協会およびロ日協会の会員どうしの交流が深まるとともに、HBCジュニアオーケストラ・ノボシビルスク公演によって、若い世代間の交流も始まりました。ロシア中央以外からも、ノボシビルスクおよびサハリンから毎年音楽家を招きコンサートを開催し、交流会で一般市民とのふれあいの機会を増やしてきました。合気道を中心にしたスポーツ交流も行われました。
姉妹都市間の定期交流が根付きはじめ、芸術文化交流に伴う人的交流が広がってきました。80年代までロシアから日本への一方通行であった芸術音楽公演が、95年道内の芸術家グループによる「ピンネシリ」シベリア公演などによって相互招聘を実現し、今後の交流の新たな始まりとなりました。「バレエ・ファンタジア」公演、チェルノブイリ支援ホームステイ受け入れ、サハリンと北海道の子供どうしの交通交流など、子供世代の日ユ交流も始まりました。サハリンとの交流は函館−ユジノサハリンスク間の定期航路就航によってますます盛んになり、具体的な相互交流事業の可能性が広がった時代といえます。